なんと酔狂なことよ、と笑われることでしょうが、週末に2泊4日でニューヨークまで出かけて、メトロポリタン・オペラの公演を3つ観てきました。機中たっぷり時間がありましたので、その感想を書きます。
「蝶々夫人」
2月27日(金)20:00~23:30
蝶々さん:クリスティーナ・ゲラルド=ドマス、ピンカートン:マルチェロ・ジョルダーニ、シャープレス:ドゥエイン・クロフト、スズキ:マリア・ジフチャク、ゴロー:グレグ・フェダリー、ボンゾ:ディーン・ピータースン、ヤマドリ:デヴィッド・ウォン、蝶々さんの息子(人形):ケヴィン・オーギュスティン、トム・リー、マーク・ペトロジーノ
指揮:パトリック・サマーズ、演出:アンソニー・ミンゲッラ、舞台監督・振付:キャロリン・チョア、装置:マイケル・レヴァイン、衣装:ハン・フェン、照明:ピーター・マンフォード、人形:ブリント・サミット劇団(マーク・ダウン、ニック・バーンズ)
私は今までこの作品があまり好きではありませんでしたが、今回はじめて、時差ボケにもかかわらず、全く退屈するところなく、最初から最後までプッチーニの音楽の美しさを味わうことができました。それは、主演のドマス、指揮のサマーズをはじめとする演奏が良かったことももちろんあるものの、何と言ってもミンゲッラ率いるチームの舞台作りがユニークで素晴らしいものであったことに尽きます。まずはその演出をご紹介しましょう。
第1幕。音楽が始まる前に幕があがり、暗い舞台下手で黒衣(くろこ)が天井から垂れた綱を引くと舞台奥の壁が少しずつ持ち上がって横に細長い長方形の明るい空間が現れてきます。持ち上がった壁は実は鏡になっていて、舞台奥の高さ半分くらいのところから手前に向かって45度の角度で傾いているので、観客席から見るとその下を通る人物をちょうど真上から見下ろした映像が映るようになっています。
舞台奥は、下から3分の1位の高さから手前にむけて傾斜したスロープになっており、鏡の下端とスロープの頂が上述の明るい空間で空をあらわし、登場人物たちは丘を登ってきたという感じで頭からその頂に姿をあらわし、スロープを下って舞台手前にある蝶々さんの家にやって来ます。音楽が始まる前に、そこにまず芸者の格好をしたバレリーナがあらわれ、扇を使って日本舞踊風の踊りを踊ります。蝶々さんの前身を表しているのでしょう。音楽が始まると芸者は消え、丘の上に軍服姿のピンカートンと神主のような格好をしたゴローがあらわれスロープを降りて舞台手前の家にやってきます。
蝶々さんの家は横にスライドする何枚もの障子だけで表わされます。舞台を横切る障子のレールは4本くらいあって、何枚もの障子が上手、下手から黒衣の手で出し入れされて、部屋を作ったり、人物を隠したりと、場面に応じて自由に空間を仕切ります。ピンカートンに家を案内するゴローのセリフそのままに、シンプルでフレキシブルな日本家屋の特徴をうまく表している道具立てといえましょう。
やがて娘たちに囲まれて蝶々さんがやってきます。娘たちの着物は例によって日本人から見るとやや珍妙なものですが、色とりどりの華やかな色彩で、そのスロープを下る姿を真上からみたものが上の鏡にも投影されて花が咲きこぼれるように見えるところが美しい。
にぎやかに結婚式が挙行されますが、ボンゾが乱入して蝶々さんのキリスト教への改宗を非難すると、親戚一同も去って、孤立無援で取り残される蝶々さん。夜の闇がおりてきて、ふたりきりのシーンになると、多数の丸い提灯を黒衣が繰り、抱擁するふたりの上から赤い花びらが舞い落ち、と幻想的な美しい場面が続き、甘く切ないプッチーニのメロディーと豊かなオーケストレーションが愛の陶酔に高揚するクライマックスでは、歌舞伎でよくつかわれる桜の花のすだれが、たけの高いMETのプロセニアム一面に垂れ下がります。
ガラルド=ドマス演じる蝶々さんはひたすら可憐でイノセントな美少女として描かれます。目鼻立ちが大きくどちらかというと面妖なドマスの顔も、珍妙な衣裳も、不思議なことにあまり気になりません。西洋の男からみた夢の日本娘のイメージが、幻想的な舞台演出の中でいきいきと立ち上がってくるのです。
第2幕で秀逸だったのは、文楽にヒントを得たというマーク・ダウンとニック・バーンズが創設したブリント・サミット劇場の人形が演じる蝶々さんの息子です。人形の顔は文楽人形のような瓜実顔ではなく、高い頬骨につり上った細い眼といういかにも西洋人からみた東洋人の特徴を誇張したものですが、黒衣の格好した3人の人形遣いが直接動かすところは同じです。
ただし文楽の場合、頭(かしら)を操作する主(おも)使いは右手の担当ですが、この人形では左手側の人が頭を操作していました。また文楽のようにピットの中で操作するわけにはいかないので、足使いの人は常に舞台上に這いつくばる姿勢で大変です。この不自由さが、幼い子供のおぼつかない足取りを表すには効果的でもあったわけですが。途中、ピンカートンの扮装をした男性舞踏手とこの人形が踊るシーンがあり、子供の存在を知ったピンカートンの思いを象徴します。
また、この公演では10人くらいの黒衣たちも大活躍します。全体を通して障子や家具の出し入れを行うほか、第一幕では歌舞伎の面(つら)明かりのように竿の先につけた提灯を操作したり、第2幕で同じく竿の先に折り紙でできた鳥をつけて鳥の群れの群舞をみせたり、蝶々さんとスズキが花を摘むシーンで背中にたくさんの花をつけて横たわり花壇になったりします。
とにかく、今回の演出は、個々の人物の衣装や着こなしには珍妙なところもあるものの、全体としては歌舞伎、日本舞踊、文楽、能などの様式美とコンセプトがうまく消化されて取り入れているため、以前のジャンカルロ・デル=モナコのプロダクションのような、観ていて気恥かしくなるような違和感は全くありません。また、オペラ全体を支配しているのはあくまでも蝶々さんのイノセンスの強さであり、西洋人の植民地主義な傲慢さが、結局は手痛いしっぺ返しを食うという構造が明確で、日本人として不愉快になる要素もないのです。日本での公演も含めて、このように納得できる《蝶々夫人》の演出は私にとっては初めてのことで、このオペラの音楽を素直に聴く気分にさせてくれました。
一方で、登場人物がアメリカに言及する時に合衆国国歌のメロディーが鳴り響き、人形が星条旗の小旗を振ったりする場面で、観客のアメリカ人はどんな気分になるのだろうか、というのが少し興味をそそられました。もともと国歌と国旗には思いいれの強い人々ですが、911によってそこにさらに特別の気分が加わり、そして今、イラク戦争の失敗と金融危機で自信を失っている。そこでこのオペラでは、合衆国海軍士官が、キリスト教徒の感覚でいえば「重婚」の罪を犯し、自分との結婚のために改宗までした相手の娘を自殺に追いやり、その子を奪い取ろうとするところを見せつけられる。被害者である蝶々さんの悲劇が美しく光り輝くほど、加害者のピンカートンの罪深さもまた目立ってしまうわけです。
METでは座席の前ひとつひとつに字幕(英語、ドイツ語、スペイン語)の表示板があります。今回の英語字幕はなかなかすぐれたもので、蝶々さんのいじらしくもけなげなセリフが逐次細かいニュアンスまでわかるような形で訳されていました。わかりやすい演出、感動的な音楽と相俟って、非常に感情移入がしやすい状況でした。私も泣けてきましたが、前の席に座っていた女性たちもみな泣いていました。
なお、演出(制作)のアンソニー・ミンゲッラは、オスカーをいくつも獲ったことがある映画の世界では有名な監督・プロデューサーでしたが、昨年54歳の若さで亡くなったそうです。帰国後、今年度のアカデミー賞授賞式の録画をTVで見ていたら、主演女優賞を獲得したケート・ウィンズレットが「(天国の)アンソニー(ミンゲッラ)とシドニー(ポラック)にこの賞を捧げたい」と言っていたのを観たのがきっかけで、初めて私はこのことに気がつきました。天才的なひらめきを感じさせる舞台は、決して映画的な手法ではなく、あくまでも劇場で効果をあげるものでしたが、鏡に映りこむ人物の真上からのショットを観せるところなどは、映像作家ならではの感性かもしれません。
演奏の方では、ゲラルド=ドマスが巧みな歌唱と演技力で圧倒的な存在感をみせたほか、シャープレスのクロフトがうまさをみせていました。テノールのジョルダーニも、ピンカートンの卑劣さが際立つこの演出では損な役割ではありますが、輝かしい声を十分に響かせていました。地味な存在ですが10年前からMETではちょくちょく主役級を歌っているテノールです。また、色彩豊かな響きを引き出したサマーズの指揮も見事だと思います。