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2003年に聴いた4つの《オテッロ》2

武田雅人

3.新国立劇場公演《オテッロ》(2003年6月10日)

 私は、以前にヴェローナやMETで、クリスチャン・ヨハンソンがラダメスなどを歌うのを聴いて、すぐれたリリコ・スピントのテノールであることは知っていましたが、本来のオテッロ歌いとしてのドランマーティコといえる声ではないのではないか、と思っていました。ところが今回聴いてみて、彼の声はオテッロに相応しい力強さと重さもある、ということを再認識しました。キャリアを積んで声が熟成したのかも知れません。ガルージンやクーラに比べると明るく感じる、鋼のような強靭な直進性のある硬質の声で、ヘルデン・テナーもできそうなタイプ。声の質からいうとヴィナイ系ではなくデル・モナコ系ですが、役作りはむしろヴィナイとドミンゴの影響を受けているように感じます。
 現代のオテッロ歌いたちは皆、激しい感情のほとばしりと剛毅で英雄的な死というデル・モナコのスタイルよりも、もう少し人間的な弱さと苦悩に重点をおいた役作りを志向しているようです。重い声は暖まるのに時間がかかるうえシリーズの初日ということもあってか、第1幕の登場のシーンで最初から圧倒的な声を響かせるというには至らず、デズデーモナとの愛の2重唱も大味でした。しかし、第2幕以降は尻上がりに調子が上がってきたようです。幕切れの死の場面もなかなか感動的でしたが、特に良かったのは第3幕第1場でデズデーモナを問い詰め、さらにそのあと一人で悲嘆にくれるシーンでした。直線的に逆上するのではなく、妻への愛と疑い、自尊心と絶望の間を揺れ動きながら苦悩を深めてゆく様子がみてとれる演奏でした。声の面でも強い表現がある長丁場を疲れや破綻を見せずに乗り切るスタミナとパワーがありました。

 イアーゴはフアン・ポンス。数々の大舞台を踏んできたベテランらしいうまさ、堂々たる体躯を生かした声量など、それなりの存在感はあるものの、私はこの人にはいつも、もうひとつヴェルディ・バリトンとしてはピンとこないもどかしさを感じます。それが何なのかは、一言では言い表しにくいのですが、おそらく本人自身がとても「いい人」なのでしょう、凄みとか強烈なキャラクターなどが感じられません。あるいは、役作りの主張がはっきりしない、つまりイアーゴを悪魔的な人物として描くのか、複雑な性格の人間なのか、もっと卑小な小悪党なのか、といった点がぼやけたままであるような気がします。
 デズデーモナはルチア・マッツァリーア。オペラ歌手について容姿を云々するのは邪道であるという人もいますが、それほど特別の声も技巧も必要のないこのデズデーモナ役に、声だけを優先したキャスティングをすることはない、とここまで書けば、この人の容姿が、同時期に来日していたボンファデッリの如くではないことはお分かりいただけることでしょう。さりとて、芯がある強めのリリコの声、フレージングの巧さが感じられる歌いまわしにはなかなかのものがあり、<柳の歌>はれなりに聴かせてくれました。
 指揮の菊池彦典は、日本人のオペラ指揮者の中では一流だと私は思っています。今までにいくつも良い演奏を聴いたことがあります。しかし、この《オテッロ》がもつ圧倒的なエネルギーと緊張感を表現するには、少し生ぬるい感じが否めませんでした。初日ということもあってか、タテの線がすっきり合わないところも目立ちました。演出は、イライジャ・モシンスキー。英国のロイヤル・オペラのプロダクションを借りてきたようです。METのオテッロもそうでしたが、彼にしては特に奇をてらったところもなく、オーソドックスで重厚な舞台でした。


4.ミラノ・スカラ座来日公演《オテッロ》(2003年9月14日、NHKホール)

 今年になってからたて続けに素晴らしい演奏を聴いたので、「オテッロ歌手」というのが稀少な存在であることを、ともすれば忘れてしまいそうになっていました。ところが、やはりこの役は特別な声のために書かれているのだ、ということを再認識する結果になったのが、9月14日公演のディヴィッド・レンダルによる演奏でした。
 経歴をみると、彼は、フェランドでデビュー、タミーノ、ドン・オッターヴィオ、ロドルフォなどの軽い声の役でキャリアを積んだ後、年齢とともにカニオやトリスタンなど重い声の役柄を手がけるよになったようです。第一声の<Esultate!(喜べ)>は、それなりの重量感と輝かしさを兼ね備えた立派な声をひびかせました。また、第1幕終わりのデズデーモナとの愛の2重唱も実に美しく歌えていました。しかし、曲が進むにつれて、彼の声はどう贔屓目にみてもリリコ・スピント、ともすればリリコの甘い声で、オテッロの役が要求する重量感と緊張感に欠けることが徐々に明らかになってきました。分厚いフルオ◯_ケストラがフォルテで演奏してもそれを超えて前に声が飛んでくるだけの声量はあるのですが、声の「重さ」というのは不思議なものです。
 同じようにリリコ・スピントの「軽め」の美声ではあっても、ドミンゴの場合は、バリトンから出発した中音域の力強さがあるとともに、なんといっても歌唱力、演技力そして声の輝かしさで補えるものがあるのですが、レンダルはちょっと違うと感じました。今回の来日公演の表キャストは、クリフトン・フォービスというアメリカ人テノールで、私は聴いたことがない人ですが、キャリアから推定するとレンダルよりは重い声と思われます。こちらで聴いた場合にはそれほど違和感はなかったのかもしれません。

 上にも書いたようにレンダルの歌唱そのものはなかなか立派なものでしたが、1箇所、皮肉に思えるところがありました。第3幕のはじめ、デズデーモナとのやりとりでオテッロは激高して彼女を娼婦呼ばわりする場面があります。ここでは、一瞬の叫ぶような音ですがハイCの音符がリコルディのスコアにもちゃんと記されています。ところが、どちらかというと声が軽いはずのレンダルが、この音を避けてしまいました。叫ぶような形でごまかすこともせず、最初から3度下を歌ったのです。
 ご承知のとおり、ムーティは厳格な「原典主義」で知られていて、通常慣習的に挿入される高音を出すことを歌手に許さないことで有名です。例えば、リゴレットの「女心の歌」でマントヴァ公爵を歌うテノールはカルーソー以来のカデンツァを挿入してハイCで終わるというのが慣例となっているのにも関わらず、ムーティ指揮の場合はそうした行為は許しません。今回はその逆で、原典通りならハイCを歌うべきところで、それ避けたヴァリアンテ(3度下の音も一応楽譜にはオプションとして載ってはいます。)を当のムーティが許容した、というわけです。
 イァーゴはレオ・ヌッチ。さすがに巧さは光っていました。NHKホールの3階席の奥からでは、繊細な演技まではわかりませんでしたが、クルシェフスキ、プティリン、ポンスのような小悪党ではなく、もっと複雑な性格を感じさせる、いかにもくっきりとした邪悪さが表現されていました。なお、一番の見せ場<悪のクレード>は、ややあっさりとしすぎていて、音符の間の沈黙が短く「貯め」がない演奏のように思えました。
 デズデーモナは、再びタマール・イヴェーリ。1月の時と同じく、見た目も声もよいが何となく薄味、という印象は変わりません。特に「アヴェ・マリア」については、グルジア出身の彼女は、もしかしたらイスラム教徒であるのかも知れない、と思うほど、祈りの気分への感情移入にもの足りなさがのこりました。もっとも、演出もちょっと変わっていて、ベッドが野戦病院のそれのように簡素きわまりないものであるうえ、いったんベッドに寝たあとに、うつぶせの姿勢のままで開始され、徐々に半身だけ起き上がって歌うというもので、これでは十全の歌唱は難しいかも知れません。

 グレアム・ヴィック演出、エツィオ・フリジェリオ装置による今回のプロダクションは、2001年のヴェルディ・イヤーの締めくくりとして、12月7日からのスカラ座シーズン開幕に選ばれたもの。1976年から使われていたゼッフィレッリ演出が傑作であっただけに、重荷を負った新演出といえます。
 ゼッフィレッリが「箱」で空間を仕切ったのに対し、フリジェリオは円筒形を基本としました。閉ざされた空間が疑心暗鬼に苛まれるオテッロの心理を象徴するというアイデアには共通するものがありますが、このプロダクションでは、ゼッフィレッリの、そしてそれを受け継いだMETやロンドンのモシンスキーの舞台とは異なり、オテッロの執務室らしい家具、調度や、書物、地図、決裁書類の類の小道具は一切排され、大道具のみのシンプルな舞台で一貫していました。これは、フリジェリオがしばしば組んだ演出家ジョルジョ・ストレーレルの系統の舞台作りです。
 しかし、ヴィック演出の場合は、《マクベス》の時の立方体もそうですが、装置が回転して場面転換するということに基本があるようです。「オテッロ」では稼動式の円盤型の床とその周囲を取り囲む円筒型の壁を使っています。カッシオとイァーゴの会話をオテッロが物かげから盗み聴きする場面で、オテッロが床下に潜むというアイデアは新機軸。円盤型の床がもち上がり舞台が2重になるのです。狭い床下に潜んで盗み聴きする様子は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」一力茶屋の場面における斧九太夫のようで、いかにも卑劣に見えます。英雄的なオテッロにはふさわしくないように思えますが、わざとその効果を狙ったのでしょう。とても面白い、と思いました。

 幕開きの嵐の場面をはじめとする合唱の迫力はやはりさすがスカラ座です。しかし、それもNHKホールの3階の遠いところからでは、やはり圧倒的というほどには感じられず、少し欲求不満が残りました。同じNHKホールで聴いた1981年のクライバー指揮による来日公演の時のように体の心まで揺さぶられるような感激までには到らなかったのは、席の位置の問題なのか、過密日程の中でムーティの指揮にも少し疲れが出てきていたのか。
あるいは、密度の濃いフルコース料理のような《オテッロ》を、何種類も、短時日の間に堪能し過ぎて、当方の感性が消化不良を起していただけ、なのかも知れません。






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